『早春』作品紹介 

 

令和六年六月号(通号1147号)

新燈抄 早春主宰(南 杏子)による十六選を掲載

新 燈 抄 選 と 選 後 言

履きしまま洗ふ長靴春の泥

  山本 幸雄

 春の雨により道路、公園など人の通り道に生じるぬかるみのことで、都会では舗装道路が増えて泥道は少なくなった。子供などは、わざわざぬかるみに入って遊んだりする。この句は、「履きしまま洗ふ長靴」で子供の好奇心に理解を示す。親の温かさが伝わってくる。

 

春めくや紅茶茶碗の薄き影

  野口 郁子

二月、三月のまだ寒い中にも万象春らしくなってきたと感じられる頃。少し日差しも暖かくなり、部屋の光も明るさを感じるのである。この句の眼目は「紅茶茶碗の薄き影」に春らしさを感じた作者。「春めく」の季語と「薄き影」が相俟って佳句となった。

 

一画は水仙の咲く野菜畑 

  竹林 敦子

稲を刈り取った後そのままにしてあると、刈株も黒くなって簫状たる景であるが、揚句は広い畑でもないが野菜を作っている。その一画に酷寒の頃に開花する水仙が咲き満ちている。香りに包まれて充足感を味わっている作者である。

 

白樺に夕日の温み雪解道

  畑 拓夫

雪が溶けだしても残雪の山風は肌を突き刺すのである。白樺は、高原・山地の日当たりの良い所に生える。あまりにも美しい景色に雪解け道を散策している様子が分かる。夕日が落ちてくると、奥の奥まで差し込む空気に温かさを感じる。白樺と夕日との対比が美しい。

 

暖かや麓の店のミレーの絵

  東面 昭博

 ミレーはフランスの画家であり、農民の生活を描いた作品が多い。中でも「落穂拾い」「種まく人」等が有名である。作者もまた絵画は相当な腕前である。木々も芽吹いて春の山は刻々と表情を変える。ふと立ち寄った店のミレーの絵に感動したつぶやきが聞こえてきそうだ。

 

空に咲くパラグライダー山笑ふ

 藤原 好文

 パラグライダーは、空を飛んで楽しむスポーツのひとつ。高低差があり、高原の広い場所から上昇気流に乗って滑空する。カラフルなので、青空に飛んでいると美しい光景である。風の流れを描くことに成功している。「山笑ふ」の季語が実に爽やかである。

 

紅椿潮騒高き中に落つ

  横松 一成

 椿は日当たりの良いところを好み、海辺に自生していることも多い。群生して椿の花の名所となっている島や半島が各地にある。この句もそんな場所であろう。高い波が押し寄せたときに、落ちた一瞬を捉えたところが巧みである。海の青と椿とのコントラストが目に浮かぶ。

 

ふるさとの峠超ゆれば涅槃雪

  岡本 晶子

 久々に故郷に帰る時に、車窓からの景色はいつもと同じだが、少し色づき始めているので春を感じるのである。山の上りから下りにかかる境を超えたら我が故郷なので感慨もひとしおである。思わぬ涅槃雪が降って来たことに、無邪気な喜びがうかがえられる。

 

 静けさや視線は蝶にさらはるる

  北田 文代

午後の昼下がりののんびりしている時であろう。青空の下お天気が良くこころもちも良い。そのような気分を味わっている目の前に縺れ合う蝶が高々と舞い上がった。初蝶であるので何処へ行くのか蝶を追いかける視線を蝶にさらわれたとの逆発想が巧みである。

 

堅実に卒寿の生きて椿咲く

 福本 靖子

 椿は花弁の肉が厚く、つやつやしい葉の間に大輪の艶麗な花を咲かせる。椿は一花がぽとりと落ちて散ることはない。若い時から九十歳まで目標を立て懸命に生きられた。振り返ってみても悔いはないのだ。椿の季語が気品を醸し出している。

 

土手に寝て土筆と語る明日の夢

 中村 八重

 早春の堤や野原、畦の雑草の間に生えて群がっている。土筆を摘み、少し疲れを感じたので、土手に寝そべっていると、雲ひとつない大空に自分の小ささにくよくよしていられなくなり、「土筆と語る明日の夢」の擬人法が佳句となった。意欲が湧いたに違いない。

 

急登の木漏れ日に濃き菫かな

 網本 八重子

急登とは、登山で急な登りまたはその道である。春の野原や山道などに、うつむき加減の可憐な濃い紫色の小さな花を咲かせるのが菫である。作者はこのような場所で、ふっと足元に群れて咲いている菫に心を奪われたのである。木漏れ日に改めて菫の美しさを印象づけられた。

 

姉訪へば濃尾平野や鳥雲に

 長田 義枝

鳥雲には、春北方に帰る渡り鳥の群れが、雲間はるかに見えなくなること。濃尾平野は岐阜・愛知の両県にまたがる広大な平野である。この句は、姉に会うことが出来て心が嬉しさでいっぱいになっているが、渡り鳥の群れの帰る姿に心が揺れ無事に帰ることを願っている作者である。

 

啓蟄やメトロの出口南口

 中村 としゑ

 二十四節気の一つであり、太陽暦の三月五日頃。土中に冬眠していた虫が皆出てくる意である。近頃の街は、地下から出てくると思わず方向を見失うことがある。作者は地下からの出口はいつも南口と決めているのである。作者を虫と重ね合わせているようで滑稽な作品となった。

 

今日からは凛と生きたし白椿

 新井 八重

作者は俳句の友人に誘われて入会された。これまでは心身共に弱かったので、家で過ごすことが多かった。毎月一回の句会を楽しみにされ、揚句のように「凛と生きたし」と言う決意に力強さが感じられる。白椿が品格を添えている。

 

痛み癒えて樹齢百年花仰ぐ

 皆川 波子

 通院をされ乍ら俳句も投句されて毎月楽しみに過ごされている。回復されて気分が良いので、桜を見に行き周りの雰囲気にも酔い、百年咲き続けた桜に出会い、元気になる勇気を貰ったことの喜びが生き生きと伝わってくる。

 

令和六年七月号(通号1148号) 

新燈抄 早春主宰(南 杏子)による十六選を掲載
 

新 燈 抄 選 と 選 後 言
 

秘め事を七色にして石鹼玉

 野口 郁子
 

 石鹼玉は春らしい明るさを持っている。子供たちが集まって石鹼玉を吹きあって楽しそうに遊んでいる所に通り掛かり足を止めた。子供も自立心が芽生えると秘密を持つようになる。「秘め事を七色にして」と言った発想が斬新で、わくわくするような楽しさが感じられる作品。 

 

親許を離るる郷の初桜

 山本幸雄
 

初桜は初花と同義である。初桜を特に賞美するのは待つ心が深いからである。生まれ育った村を出て、都会の生活をする子を思う親の嬉しさと不安とが見てとれる。その反面子供は大きな憧れと夢とを抱き、心の強さを感じさせる。ちらほらと咲き始めた桜が明るい雰囲気を醸し出している。 

 

竿を差す間合程よく花見船

  竹林敦子
 

桜を愛でるのは色々な場所を選ぶが、船上から眺めるのも格別である。船頭が竿一本で舵を取りながら岩を突いたり、浅瀬に差して塩梅の良い位置を決める。「間合程よき」で、船頭のきびきびした腕の良さが分かる。桜の絢爛さに観光客の歓声迄が響いてくる感じである。 

 

閉店の故郷の銀座朧月

  東面 昭博
 

春は水蒸気が月を包んでいて朦朧として柔らかい感じに見えるのが朧月である。かつては故郷の商店街も人の往来や観光客で賑わった。現在は若者は都会に行くので後継者不足の為にシャッター街となった。空虚さがにじみ出て朧月が情感を深める。 

 

富士山を指呼に茶畠うねりだす

  畑 拓夫
 

 茶畠は茶ノ木を植えた畠であり、京都の高山寺に「日本最古の茶園」の碑があり茶畑がある。この句は、山の斜面に整列して青々と光り輝いている富士山の近くの美しい茶畠の光景が想像出来る。新芽を摘むのは間近である。「うねりだす」が表現の効果を高めている。 

 

混沌の世は其の儘に今日の花

  藤原 好文
 

 この世は焦っても仕方が無いと思うので、「時の流れに身をまかせ」の歌のように静かに成り行きを待つとして、身の回りには桜が咲き満ちている。鳥の声も楽しく生き生きと輝いている。春の幸福感が心を充たしたと言える。 

 

跳箱をぐるりと廻る一年生

  岡本 佳子
 

 この句は一読して小学一年生と思われる。幼稚園とは様子ががらりと変わる。担任の先生は何かと気を遣うのである。校内を順番に案内され最後は大きくて広い体育館にある跳箱に、いつの日にか跳べる夢を抱いている子供たち。一人ひとりの瞳が輝いている。 

 

偲ぶ人ありて残花の舞ひ散れり

  山﨑 睦枝
 

 残花は、花時も大方過ぎまだ散り残っている桜のこと。花の命と人の命とを重ね合わせて、儚さを詠むことも多くある。「偲ぶ人」とはご主人だと思う。亡くされて一時落胆されたが、俳句の力で元気を取り戻された。残花の吹雪が応援しているようである。 

 

 桃の花古墳巡りの吉備の里

  梶川 昌弘
 

吉備は古代の国名で、現在の岡山県。いにしえに吉備と呼ばれた岡山県には、全国でも屈指の数の遺跡や古墳が残されている。春の陽気の中で古代人の住居、生活様式に触れ、桃畑の美しさと香りとに心満たされ、吉備国の繫栄を五感で感じとられた作者。 

 

ひとはみな家路のありて春の月

  田中 秀一
 

 春の月は朧であり、大きくまた重たげで、色は橙色を帯び柔らかさを感じさせる。「家路のありて」で、家族の温かさが滲み出ている。春の月は人を暖かく包み込んでいる。世の中は平和であることを協調していると捉えたのがポイントといえる。 

 

新社員何処か虚ろのベンチかな

  合田 朝子 

 多くの企業では毎年四月に新入社員を迎える。新しいスーツや制服に凛々しさがあり、清々しいものがある。この句は、希望通りの配属にはならなかったのであろう。ベンチに座っている姿から虚しさを感じた作者が現代社会の本質を言い切っている作品。 

 

花衣余韻を脱ぎて衣紋掛

  柿木 八重子
 

衣紋掛は、肩幅ほどの短い棒の中央に紐をつけて衣服を吊るす。花見の衣装を脱いで着替えようとする。「余韻を脱ぎて」であるのは、眼裏桜の美しさが残っていることを表現していると感じたい。 

 

とき色と群青満たす春夕焼

  辻 美知子
 

はんなりと西の空を染めるのどかさがあり、明日への期待感を持たせる春夕焼である。茜色が広がり、やがて全天が縹色に染め分けられ、徐々に色の重なりを満たしたと捉えた。入日の沈んだ美しい光景である。 

 

燕来る誰も住まなくなりし家

  髙松 典子
 

 燕が飛び交うようになると、いかにも春の季節の到来を感じさせる。半世紀前には、マイホームを持つのが夢であった。代々家を継ぐことを子供の誰かが担ってきたが、核家族化が進んだために空家が増えた。優しい主に会えると思った燕の心情を思うと切なくなる。 

 

落柿舎に若人群れて竹の秋

  岩渕 泰詠
 

春になり万象が芽吹き潔い情景の中で、竹だけが黄ばみ精彩を欠いている。落柿舎は右京区嵯峨にあり向井去来の別荘で、人気のスポット。この句は、賑やかな声、笑い声、甲高い声が落柿舎に溢れている。華やかさと竹の秋との対比が良い。 

 

若草や寝そべる大地力得て

  氏家 勉
 

 芽を出して間もない若草の柔らかく瑞々しい新鮮な色や香りが感じられる。腹ばいになり両足を伸ばすと大地の鼓動を感じた作者。自然の大きな力を全身に受け、力が湧いてきたことを感じられる作品。 
 


令和六年八月号(通号1149) 

新燈抄 早春主宰(南 杏子)による十六選を掲載 

新 燈 抄 選 と 選 後 言 

虚子館の俳磚の文字風薫る 

  東面 昭博 

 今年は高浜虚子生誕一五〇年に当たる。客観写生を信条として花鳥諷詠を提唱し、現在も多くの俳人が誕生している。俳磚とは、文字は藍色で白のタイルに俳句を書き焼き上げている。「風薫る」の季語と文字との藍色とが相俟って爽やかさを際立たせている作品である。 

 

新緑や牛舎に並ぶ搾乳機 

  畑 拓夫
 

酪農を見学されたのであろう。乳牛などを飼育し、乳を搾り、それを加工してバター、チーズを作る。この句は、牛舎に搾乳機が「並ぶ」だから、相当な牛が想像出来る。初夏の頃に、木々の若葉の艶やかな緑と真っ白な乳の瑞々しさが溢れ、心地よい空気を感じさせる。 

 

母の日や文筥に妣の電話帳

  横松 一成
 

母の日は五月の第二日曜日である。母への敬愛と感謝をする。母の存命な人は赤、亡き人は白のカーネーションを飾る。この句は、お母様の大切な文箱を整理していると電話帳が出てきた。そう言えば、几帳面な性格と美しい文字であったとの懐かしい思いに耽る作者。 

 

枡酒の盛りこぼすまま初鰹

  藤原 好文
 

初鰹は近海ものがよいとされ、なかでも相模灘沖に差しかかるころが脂がのり一番美味とされる。お酒と初鰹とで食の贅を極める作者。毎年この時期を楽しみにされている。枡に注がれた一瞬を「盛りこぼすまま」と言い切ったことで、豪快に飲む所作が目に浮かぶ。 

 

鉄棒に身を巻く少女新樹光 

  本多 薫
 

 新樹は、初夏の瑞々しい緑の立木を言う。小学校の校庭の隅には必ず鉄棒がある。前回りは簡単であるが、逆上がりはなかなか難しいのである。少女は鉄棒が得意なので身のこなしも美しい。「鉄棒に身を巻く」が、斬新で且つ新樹が若さを溢れさせている。 

 

草笛を親子奏づる童歌

  佐々木 啓川
 

 草の葉や木の葉を唇に押し当てて吹き鳴らす。簡単な曲は吹けるが、なかなか技術がいる。揚句は、草笛をお父さん又はお母さんに一生懸命に習ったのであろう。練習の結果リズムよく吹けるようになった。夕焼けの中親子の長い影までもが想像出来て、愛情の詰まった作品になっている。 

 

代代の続く生家の端午かな

  乾 昭子
 

 端午は五月五日の節句であり、男の子が生まれた後に、初めて迎える端午の節句は、初節句として特別に祝う。実家の後継者が誕生したので、初節句のお祝いに出向かれた。旧家を守っていくことは大変であり、作者も一安心である。親族一同が喜びに湧いている様子をうかがうことが出来る。 

 

葉桜の隙間を満たす鳥の声

  北田 文代
 

 桜が散り終わると、瑞々しい若葉の緑が濃くなって、若葉の美しさを見せる。葉桜に日が当たると隙間からは濃く淡く、青空が見え、地には影が揺れ動く。鳥の声も賑やかに降りかかり辺りにまで広がっていることを「隙間を満たす」と言い切ったのが佳句となった。 

 

麦秋や黄金色の波打てり

  清藤 清成
 

むぎあきとも言い、麦の取り入れ時で、初夏の頃である。近江路の地平のかなたまで一面に黄熟した麦畑の広がっている景色である。太陽の光に輝き、風が吹けば大きな波のうねりのような雄大なる美しい光景を描いてみせている。 

 

廃屋の闇かすめ飛ぶ群燕

  小田 たけし
 

 燕が飛び交うようになると、いかにも春の季節到来を感じさせる。村には子供達が大勢いたが、若者は進学、就職と都会に出て行くので、継ぐ人がいなくなった家は廃屋となっている。燕が勢い良く飛ぶ姿と人影のない村との対比が何とも切なく哀れさを感じさせる。 

 

新緑の深き石山式部像

  川野 容子
 

 新緑は心が洗われるような初夏の若葉の緑を言う。石山寺は「源氏物語」の始まりとして有名である。紫式部は新しい物語を書くために、石山寺に七日間参籠したと伝えられており、座像がある。作者は紫式部の足跡を辿り、新緑の溌溂とした力を満喫された。 

 

薫風や何度も回す洗濯機

  安田 雅子
 

夏の南風で匂うような爽やかさを感ずるのを薫風と言った。青嵐よりも弱く柔らかな風である。晴天でもあるので、家族の洗濯物を幾度と洗っては乾かす。便利な洗濯機のお蔭で苦になることはない。心地良い風が吹き渡り、ご機嫌な顔が目に浮かぶ。 

 

薪能伝統芸に舞ふ火の粉

  七尾 眞貴子
 

薪能は、薪の宴の能の意。主として夜に能楽堂、若しくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて演じる。尼崎の伝統の地、大物川緑地野外能舞台であろう。屋外の開放的な空間に、時折火の粉が舞い幻想的な雰囲気に忘我している。 

 

園児らの去りし後には百千鳥 

  井上 泰子
 

 百千鳥は色々な鳥。春の気持ちの良い時季に近くの公園に出掛けたのである。園児の列は乱れ、間延びもするが楽しそうである。色々な言葉が飛び交うので想像以上に賑やかである。この句は、園児が去った一瞬の静けさを感じ、囀りの大自然を感じている作品。 

 

三船祭静かに浮かぶ扇かな

  山本 邦花
 

三船祭は京都市右京区の車折神社の祭礼であり、平安時代の舟遊びである。大堰川(渡月橋上流)に浮かべた龍頭船と鷁頭船の上で、管弦や舞を奉納し扇を流すのである。この雅な伝統行事を見学し、一時いにしえの文化を堪能された。「三船祭(五月)」「扇(七月)」共に季語 

 

母の日や馴染みの店に傘忘れ

  松下 充男
 

 何時もお母様はお元気に過ごされているので、安心されているが、今日は特別なので贈り物を考えた。行きつけの店で相談して、買い心うきうきとして家路に着く。作者は傘の忘れはどうでもよくて、親孝行の出来た嬉しさが、「傘忘れ」で思いを伝えている。 
 

令和六年九月号(通号1150) 

新燈抄 早春主宰(南 杏子)による十六選を掲載 

新 燈 抄 選 と 選 後 言 

 風鈴を吊す釘にも歴史あり 

  本多 薫 

 小さな鐘のような形をして、中に舌が下がっている金属・陶器・ガラス・貝殻がある。風筋に吊るすと、心地の良い音に涼しさを感じる。この句は、一本の錆びて古びた釘に子供の頃を回顧するのである。小さな物や古い物を大切にすることを学ぶのも俳句の良いところ。 

 

梅の実や同姓多き忍者村 

  畑拓夫 

梅の実は青梅の副題である。六月の梅雨の頃に梅の実はふくらみ、熟す前の実が青梅である。作者は甲賀の忍者村を訪れ、忍者の世界に迷い込んだかのような「忍者博物館」を堪能された。代々伝わる同姓の一族が多いことは栄華を極めた証であり、梅の実の季語が的確である。 

 

岩清水頬くつつけて飲みにけり 

  山本幸雄
 

岩清水は、岩の間から湧き出る清冷な清水。夏山の木々の緑や鳥の声、風の音、せせらぎの流れを聞きながら歩くと、自然の美しさに圧倒される。この句は、「頬くつつけて」と言ったことで、石清水の透明感も表され、冷たさまでが伝わってくる作品となった。 

 

万緑や水を揺らして恋みくじ

  野口郁子
 

万緑は、満目の草木の緑のことを言う。夏の大地にみなぎる生命感を表現している。神社仏閣をお参りすると、少し変わったおみくじに出会うことがある。揚句は、水占いだと思う。水に浮かべると文字が表れて優雅である。万緑の強さと恋の行方を表現しているのが楽しい。 

 

シャンパンの泡止めどなく星涼し 

  安田 和子
 

 シャンパンは、発泡性の白葡萄酒であり、炭酸ガスを含んで爽快な香味がある。夜の宴会であろうか、シャンパンを開けるとパーンとの爽やかな音と共に、小さな泡粒がプチプチと流れる。折しも夏の空には星が輝やいてロマンチックな夜の雰囲気が、星凉しで効果を上げている。 

 

暗闇に山のそばだつ鵜川かな

  竹林 敦子
 

 飼い馴らした鵜を使って鮎を取る。岐阜県長良川が最も有名である。この句は、鵜舟の舳に篝火を焚き鵜匠が綱を巧みにさばき吞んだ鮎を吐かせる。篝火によって周りの景色がうっすらと見えた一瞬の景を捉えたところが見事である。 

 

梅雨時や鴉重たき声落とす

  山﨑 睦枝
 

 梅雨時は、六月十一、十二の入梅の日から三十日間を言う。降りみ降らずみの天候が続くので、体調管理が大切な時である。近頃は人家の辺りまで鴉が、餌を求めて鳴く声を聞く。「鴉重たき声落す」で人間の声も重たくなる。日常をすんなり詠めた作品である。 

 

落ちさうで落ちずひしめき燕の子

  井伊 巳佳
 

 燕は一度に五個程度の卵を産むので、孵化して雛になると小さな巣の中は混み合って押し合いとなる。大きくなるにつれて窮屈で、身を乗り出しているが、落ちそうで案外落ちないものである。心配しながら見守っている様子が伺える。 

 

黒南風や体育館の窓高し

  長田 義枝
 

黒南風は、鳥羽・伊豆の船詞。梅雨期の初めに吹く南風。そよそよとやわらかく吹く季節風である。体育館は、熱戦の声が激しく飛び交っているのか、放課後の練習をしているのか内容を言ってはいないが、読み手が想像すればよい。黒南風の季語と窓高しが言い得て妙である。 

 

腹這ひの少年働く蟻見つむ

  若狭 成光 

 蟻にも役割がいろいろあり、何時も目に触れているのは働き蟻で逞しい労働者である。蟻の列を見ているとお互い触角を触れ合って何らかの通信を交わしているようである。昆虫が大好きな少年なので、腹這いになって観察している生き生きとした動きが伝わって来る。 

 

十薬や生活の井戸をとり囲む

  西田 紀子
 

 十薬は、日蔭や湿った場所に盛んに繫殖する。生活するための井戸であり、代々大切に使われているので何時もその周りはじめじめ濡れているので、十薬が井戸を囲むように・・。そこはきっと汚れのないように守っているようである。 

 

空晴れて少し欠けたる梅雨の月

  福本 靖子
 

雨雲に閉ざされがちな梅雨の時期にふと現れる月である。毎日見えるわけではないので、思わぬ美しい月に感激の声を上げることがある。作者は梅雨晴れの空に久しく見える月に喜びを感じられたが、円かではなかった。上弦、下弦と変化する。 

 

来たる日の喜び願ひ田植唄

  氏家 勉 

農家の経験がないので、一度田植唄を聞いてみたい。田植えは田の神様を迎えての祭りの行事であり、楽しい唄も飛び交う。唄によって調子を整え、手と心とが弾み仕事がはかどった。「来たる日」とは、秋の実りの収穫に満ちた様子が浮かぶ。 

 

リフレインの流行り海月の浮き沈み

  川原 亜紀
 

 詩や楽曲の中で、各節の後に同じ部分を繰り返すこと。各句会、あるいは大会等で、リフレインで秀句になるとその傾向が多くなるが、各作者は注意しなければならない。この句は、リフレインの言葉の堅さに対し海月の掴み所の無い物との対照が良い。 

 

桑の実をむずと差し出す餓鬼大将

  岡本 晶子
 

初夏の頃、桑の葉陰に苺に似た紅色の実を見出す。初めは緑、紅色、さらに熟すと紫黒色になる。桑苺とも言う。むずとは、押し切ってするさま。遠慮せずという意味。活発な子供の大将である子が、桑の実を籠いっぱいを「むずと」で心の優しさが溢れた作品。 

 

雨止みて阪急電車の窓に虹

  頼成 美恵子
 

 電車に乗ったとたん夕立が激しく降って、景色も見えないくらいである。停車駅に着くたびに不安を募らせる。夕立が何時止むかと思っていると、次の駅が近づく。ふと気が付くと雨は止んでいる。遠くを見ると大きな虹がかかり喜びが伝わってくる。